私たちはこうしてユニオンをつくりました

●私の生い立ちと日研総業入社のいきさつ(和田義光)

 私は1965年に新潟に生まれました。地元の農業高校を卒業しましたが、就職先が見つからず、新潟県立の職業訓練高校に通うことにしました。そこで工作機械の勉強をして、翌春から地元の鉄工所で勤務することになりました。鉄工所は就労者が60人ほどで、月給は手取りで14〜17万円でした。ところが、23才の頃、取引先に材料を配達中、スピード違反(時速11kmオーバー)で捕まりました。そのことが会社に知られ、何人かの同僚は味方になってくれましたが、結果的に解雇されてしまいました。
 その後は6ヶ月ほど東京電力の建設現場で日給9000〜10000円のバイトをして過ごしていましたが、翌年には県内の運送会社に入社。トラックの運転手になり、新潟と関東を往復し、月に手取りで24〜27万円もらって生計を立てていました。
 数年間そこで働いた後、知り合いの運送会社に転職しました。社員は15名ほどで規模は前より小さくなりましたが、当初は手取りで月に32〜33万円稼いでいました。しかし段々依頼が少なくなり、月給が遂に20万円を切るようになっていたころ、転職する事にしました。2003年のことです。
 2年ほど県内での仕事を探しましたが、すでに35歳を超えていた私にとって窓口はあまりに狭いものでした。当時の不況もあって、求人の数も少なかったようです。そうして職を探している間に遂に貯蓄を使い切り、実家で生活するようになりました。とにかく仕事がしたい、その思いは次第に強くなっていきました。
 2005年の5月、私は広告を見て、新潟で開催された日研主催の仕事説明会に参加しました。仕事説明会ときいていたのですが、会が終わってから日研の方に相談にいくと、すぐに仕事を紹介されることになりました。私は事務所に行って、「手取りで20万円以上もらえれば、勤務地は県外でもいいです」と言いました。すると、「東京でもいいか」ときかれました。トラックの運転手をしていた頃、東京には何度も行っていたので、他県よりはいいかなと思い、「いいです」と言ったところ、日野自動車を紹介されました。私はとにかく早く仕事をしたかったので、すぐに赴任することにしました。
 以上が、私と日野自動車との出会いです。

●私の生い立ちと入社のいきさつ(池田一慶)

 私は、1979年の東京生まれです。小さな頃から虫が大好きで、高校まで地元で過ごしました。高校時代には、ガテン系のバイトをいくつも経験しました。98年に高校を卒業しましたが、したいことが見つからず、とりあえず親の勧めで予備校に通うことにしました。
 2浪の末、都内の大学に合格し、大学ではバンドを組んだりして過ごしました。教職もとっており、教育実習でアリの話をしたら「アリンコ先生」と呼ばれ、子どもに人気があったのですが、卒業後の教員試験や公務員試験はどれも不合格でした。
 卒業した年の5月、私は日研に入社しました。就職浪人の道を選ぶこともできたかもしれませんが、私はすぐに働きたかったのです。日研を選んだのは、「31万円の手取り」に惹かれたからです。

▼私たちの仕事
 
 日野自動車工場に初めて赴任した日、日野自動車の職員と「面接」がありました。面接と言っても、きかれることは「やる気あるか?」とか、「働きぬけるのか?」とか、そういう内容のことでした。
 次の日から、自分の持ち場を見学するように言われました。簡単な説明は受けたものの、実際に機械を動かしたりさせてもらえないまま、2日後にいきなり夜勤で働くように言われました。たまたま近くで働いていた先輩が仕事を教えてくれましたが、当然つきっきりで見てくれるわけでもなく、とても不安な気持ちで仕事をしていました。
 私たちは大きな鉄のリングを加工してギアに仕上げる仕事をしています。リングは10kgのものから、重いものになると60kgのものまであります。工場のラインに乗せるためにこのリングを吊り上げなければいけないのですが、不慣れなために最初のうちはよくリングを落としてしまいます。リングはとても重いので拾い上げるだけで汗だくになりますし、それだけならまだいいのですが、指を挟んでしまうこともありました。骨ぐらい簡単に折れてしまうような、それほど重いリングを毎日持ち上げなければならないのです。私たちのギア加工ラインには、4本のラインがあり、4人の労働者が昼夜交代勤務を一週間ずつくり返しています。
 休日はとても変則的です。一応、土・日が休みになっている「工場カレンダー」がありますが、生産目標しだいで休みは変動します。規則正しい生活が送れず、体調が悪くなる時がしばしばあります。その上、「月給31万円以上可」と広告には書いてあったのに、実際には24万円前後、手取りでは月に18万円程度しかもらえません。
 私たちの職場には、日研やフルキャストなどから派遣されてくる私たちのような人のほかに、日野自動車工場の正社員、期間工がいました。内訳は、およそ正社員が半分、期間工と派遣が4分の1ずつです。正社員も期間工も派遣も、受け持ちこそ各人で異なりますが、みんな同じラインでほぼ同内容の仕事を受け持っています。

▼派遣社員に対する差別    
                                             
 私たちは、もう1年以上同じ職場にいます。そして、同じ業務を来る日も来る日も続けています。派遣社員は2〜3ヶ月程度のこま切れ雇用のため、私たちのように長期間働き続けている人も他の業務をさせてもらえないのです。今の職務にはもう慣れてきたのに、新しい仕事はさせてもらえません。
 あとから同じラインに入ってきた正社員は、私たちがやっている作業などあっという間にこなし、次から次へと新しいことを覚え、私たちを追い抜いていきます。私たちは何も教えてもらえず、何もさせてもらえないのに、正社員には「そんなこともできないのか!」と一喝されます。やらせてくれさえすれば自分たちにもできるのに、と思うと悔しくて仕方がありません。

▼ユニオン結成を決意したのは・・・

 私たちが一番訴えたいことは、「派遣労働者を人間として扱って欲しい!」ということです。私たちの職場の非正社員は、そのほとんどが1週間から1ヶ月で辞めていきます。私は日野自動車工場で働き始めてまだ2年目ですが、数え切れないほど多くの非正社員がここを過ぎ去っていきました。この文章を書いている週にも、何人かが辞職したり、職場を移ったりしました。
 まともな教育もしてもらえず、「月給31万円」なんて真っ赤な嘘。こんな状態では、多くの人が辞めていくのも無理は無いのかもしれません。
 私たちは正社員とも期間工ともさして変わらぬ労働をしています。それなのに、期間工には1年勤続するごとに支払われる慰労金の41万円も夏休みと正月休みの際に支払われる手当ての5万円も、私たちはもらうことができません。それどころか、期間工は免除されている寮費・電器製品のリース代を支払わなければなりません。同じ仕事をしているのに、期間工と派遣労働者では年間で100万円以上も所得に差があるのです。私たちは何も好き好んで賃金の少ない働き方をしているのではありません。企業の都合で「こま切れ雇用」をするのであれば、むしろ「使い捨て」の利便性に見合う水準の賃金を保障すべきだと思います。今のように派遣がそれ以外の労働者に比べて低賃金で働くことを強いられるのには、もうたくさんなのです。
 何より悔しいのは、正社員に馬鹿にされる事です。とある飲みの席で、「その歳で派遣じゃ、人生終わってるな」と正社員に言われました。そりゃ、派遣で適当に働いている人もいるかもしれませんが、自分は必死でやっているんです。怠けている正社員よりよっぽど働いています。
 そのとき、和田さんがその正社員を怒鳴りつけてくれました。自分は一人ぼっちだと思っていた私に転機が訪れました。偽装請負や偽装出向などについて学び、やっぱり今の状態は異常なんだと確信し、組合を結成することにしました。
 おかしいのは派遣会社であり、工場であり、この社会です。なのに派遣労働者、特に若い人たちは、職場の仲間と連帯することをしません。こうまでひどい扱いをされているのに、諦めてしまっているようです。
 だから、私たち派遣労働者が組合を作ることで、「諦めなくていいんだ」と、全国の派遣労働者に伝えたいのです。
 「同じ人間として扱え!」 これが、私たちガテン系連帯の人間としてのメッセージです。


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